千代鶴貞秀

昭和二十六年三月十五日掲載の東京金物通信

刃物鍛冶の精華 千代鶴翁の栄誉 芸術恩賜賞にのぼる

現代刃物鍛冶として今後再び望み得ない国賓的名工として推称されている長運斎千代鶴是秀―加藤廣(七十八歳)が、この程行われた日本芸術院の二十五度恩賜賞(一名)、芸術院(十名以内)の受賞候補選挙において恩賜賞候補として推薦され、芸能界の注目を集めると共に利器業界の誇らしい春の話題として賑やかに伝えられている。

次回こそ栄冠を  慰励の辞集まる

日本芸術院の二十五年度恩賜賞、芸術院賞の選考は芸術院が今回初めて採用した選考委員制度による受賞候補の推薦によったもので、この恩賜賞推薦者として三宅克己(洋水彩画)小川未明(児童文学)小糸源太郎(洋画)の三氏と共に千代鶴加藤翁が工芸界から推薦を受けたもので、選考の結果は三宅、小川の両氏が恩賜賞候補として決定発表を見たのであるが、一刃物鍛冶としてともかく推薦の栄誉を担った事は加藤翁不断の精進の賜物であり利器工人の天下に気を吐いたもので、必要欠くべからざるものでありながらとかく世間から忘られ勝ちな刃物特に日本打刃物の認識普及に寄与するところ絶大なるものありとして加藤翁の下に多数の祝詞が寄せられ、来るべき栄冠のために翁の一層の精進と健在を祈念激励している。

"勿体ない話だ"加藤翁超然と語る

中目黒の工房を訪ねると春暖の昼下り鉋の研ぎに余念ない翁は「いや、飛んでもない勿体ない話で、第一流の方々と並べられてはお恥ずかしき次第だ」と前置して推薦されたというだけのもので候補になったのでもなく新聞社あたりからも再三来られ祝詞が参ったりしているが有難い話だが騒がれても困る。候補第一となられた三宅さんは私のいとこと幼友達で色々画を貰っていて間接に拝見している恩賜賞に相応しい方だ。こんなめぐり合せも長生きのお蔭だ。
余事ではあるが私は刀匠の流れを汲んではいるが刀は打たない。刀剣は美術品ではないし日用品とも云い難い。私は鉋、ノミ、ナイフ何でも作ってみるが、これらのものが使って見て幾分でも他に優れていれば価値を認められてもよいのではないかと思っている。永生きしてもよいものが一つでも遺されれば満足で好きな仕事が楽しみなのだ。

名工千代鶴素描

加藤翁の祖は備前(岡山県)福岡の刀匠一文字助房に出て(近江の片山一文字と伝えられているは誤り)佐々木一法の流れを汲みのち米沢藩鍛冶となった名匠武蔵大椽綱秀から七代加藤長運斎綱俊が翁の祖父で長運斎のあとは叔父運寿斎是一が継ぎその指導を受け祖父の名跡を翁が継いで長運斎是秀(即ち武蔵大椽から八代目)と名乗ったものである。
以上の系図が示す如く代々の刀匠であったが翁は明治の廃刀令後に生れ、道具鍛冶として技法を学んだが叔父運寿斎の精神薫陶に鍛えられて工匠の誇りを高く持して技道に精進よくうん奥を極めて数々の名作を物している刀剣は工芸品にあらずとしてこれを鍛たず生涯を通じて一,二の短刀を作った以外は刀は作らなかったと翁は語っている。
先年秩父宮へ献納の話があって刀をとの事だったが翁はこれを辞してナイフを製作献納した。日常身辺にあって役立つものをとの翁の願いが叶ったという事である
千代鶴は鉋鍛冶として業界に通っている事は既に周知の通りであるが翁は鉋、ノミはもち論鋸、切り出し、ナイフ、火ばしの類に至るまで手がけ、その悉くが丹念に仕上げられた名作で昨年、日本橋三越百貨店で開かれた千代鶴展に出陳された逸品は観覧者の眼を奪った。
本年七十八歳の高齢であるが信夫人との静かな二人暮しでなお今回の翁の恩賜賞推薦支持者は彫刻界の大御所朝倉文夫氏といわれる。 (周旗)